おひさま堂年代記 ~豆と笑いの冒険譚~
連載読みもの
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ここに記されしは、「おひさま堂」という名の小さき珈琲屋が誕生するまで、そしてその後に歩んだ数々の旅の記録である。 剣も魔法も出てこない──代わりに現れるのは、豆を煎る炉の唸り、街道沿いの奇妙な出会い、そして時折やってくる病や災いの魔物たち。
これは壮大な英雄譚でもなく、国を救う大冒険でもない。 けれど、日々の営みの中で笑い、時に頭を抱え、それでも前へ進む──そんな騒動と奮闘の年代記だ。
どうか気楽に読み進められよ。 読み終えた時、ほんの少しでも笑みがこぼれ、心に一杯の温かい珈琲が満たされることを願いつつ、豆屋の女房が記せし戯言と思われたし。

🏰 四月の雪 ― 祝福の白き試練と凍える朝 ―
那須塩原で迎えた、最初の朝のことである。今思い返しても、あの朝の空気の冷たさは、身体の奥にまで残っているように感じられる。
目が覚めたとき、まず思ったのは、「4月中旬なのに、ずいぶん冷えるわね」という、何気ない違和感だった。まだ布団の中にいるというのに、どこか、外気がそのまま流れ込んでくるような寒さである。
ふと、部屋の明るさにも気づいた。やけに明るい。
「寝過ごしたかしら」
そんなことを思いながら、窓の方へ目をやった瞬間、私は言葉を失った。
外は一面の雪景色だったのである。
雪。
それも、ただの雪ではない。すでに十数センチは積もっていたと思う。
私にとって、これほどの雪はほとんど初めての経験であった。
気がつけば、子どものように布団を飛び出していた。
「雪よ!」
声を上げながら外へ出ると、勇者もまた、少し嬉しそうに後に続いた。
静まり返った朝の空気。白く覆われた大地。それは、どこか現実離れした、美しい光景であった。
昨日までの慌ただしさも、
引っ越しの混乱も、
そして、あの失態さえも――
その瞬間だけは、すべてが遠くに感じられた。
この雪が、新しい生活の始まりを祝ってくれている。そんなふうに思えたのである。
しかし、その感覚は長くは続かなかった。
「……寒いわね」 現実は、やはり現実であった。
部屋に戻り、勇者がエアコンのスイッチを入れる。これで暖まるだろうと、疑いもなく思っていた。だが、いくら待っても室内は暖まらない。
それどころか、時間が経つにつれて、空気はむしろ冷えていくように感じられた。
「おかしいな」
そう言ってリモコンを見直したとき、私たちはようやく気づいたのである。
このエアコンが、冷房専用であったということに……。
その瞬間、胸の奥に、ひやりとしたものが広がった。外は雪。気温は下がり続けている。そして、暖を取る手段がない……。
「ストーブを買いに行こう!」
勇者の言葉にうなずきながらも、私はどこかで、不安を感じていた。そして、その不安は的中する。
時は四月。 どの店でも、ストーブはもう販売されていなかったのだ……。
一軒目……二軒目……三軒目……
店を回るたびに、同じ答えが返ってくる。
「季節商品ですので」
それは、当然のことである。頭では理解している。
しかし、理解と現実は、必ずしも一致しないものだ。
店を出るたびに、外の空気はさらに冷たくなっていく。気温は、すでに零度を下回っていた。
そして、もうひとつの問題があった。
まだ、荷解きが終わっていないのだ。服は春物ばかり。冬の衣類は箱の中。しかも、その箱がどこにあるのか、すぐには分からない。
あのときの不安は、単に寒さに対するものではなかった。見知らぬ土地で、まだ何も整っていない暮らし。頼れるものも、手に取れるものも限られている中で、この先、きちんと生活していけるのかという不安。
それが、静かに、しかし確実に胸の中に広がっていくのだった。
九軒目の店に入ったとき、正直なところ、私はもう期待していなかった。
だが、その店で、思いがけない言葉を聞くことになる。
「小型の電気ストーブなら、二台だけありますよ」
そのときの安堵は、今でもはっきりと覚えている。私たちは、その二台を迷うことなく購入した。
それは、買い物というより、助けてもらったという感覚に近かった。
その後のことである。私たちは、新生活に必要な家電の全てを、その店で揃えることにした。
助けてもらったあのときの恩……まさしく命の恩人である。「大袈裟な!」というなかれ。
私たちは、それほどその恩を忘れることができなかったのだ。
小さなストーブの前で、ようやく落ち着いた夜。
外にはまだ雪が降っていた。
振り返れば、決して穏やかな始まりではなかった。
むしろ、不安と寒さに包まれた、重たい一日であったと思う。
それでも、あの朝の雪は、やはりどこかで「始まり」を告げていたのだろう。
こうして私たちは、不安と戸惑いを抱えながらも、栃木での暮らしを、確かに歩み始めたのである。
📜 次回予告
家が売れたことで、思いがけず早まった移住の時。だが正直なところ、勇者の珈琲修行は、まだ道半ばであった。
そこで選んだのは――まさかの“通信教育”。
身近に師もなく、釜ひとつを相棒に、孤独な焙煎修行が始まる。
残された猶予は、わずか八か月。果たして勇者は、この無謀とも言える挑戦を乗り越えられるのか
次なる戦いの火蓋が、静かに切って落とされる。
次回、第10章:珈琲修行 ― 前代未聞の通信教育?!は、5月1日(金)公開予定 お楽しみに!