おひさま堂創世記 ~豆と笑いの冒険譚~

連載読みもの

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ここに記されしは、「おひさま堂」という名の小さき珈琲屋が誕生するまで、そしてその後に歩んだ数々の旅の記録である。 剣も魔法も出てこない──代わりに現れるのは、豆を煎る炉の唸り、街道沿いの奇妙な出会い、そして時折やってくる病や災いの魔物たち。

これは壮大な英雄譚でもなく、国を救う大冒険でもない。 けれど、日々の営みの中で笑い、時に頭を抱え、それでも前へ進む──そんな騒動と奮闘の年代記だ。

どうか気楽に読み進められよ。 読み終えた時、ほんの少しでも笑みがこぼれ、心に一杯の温かい珈琲が満たされることを願いつつ、豆屋の女房が記せし戯言と思われたし。

   

第3章:戦線離脱と働き方の書 ― 新たなる戦場を求めて ―

それは、初夏の風が城下町を抜けたある日のことだった。勇者が、帰還するやいなや、開口一番こう言った。

「ギルドから通達だ。早期退職の募集が出た。……明日、応募する。」
まるで、明日ドラゴン討伐に出るかのような勢いである。
こちらは台所で木杓子を持ったまま、思わず「ひぇ~!」と叫んでしまった。

確かに、以前から「いつかその機会があれば出る」と話してはいた。
理由はふたつ。ひとつは、勇者がかつて“心臓の魔獣”に襲われた経験があり、ストレスという名の毒煙から距離を置くため。
もうひとつは、定年という“老境の塔”に登る前に、新しい道を歩き始めたかったからだ。

当時の王国では“定年延長”という魔法が広まりつつあった。だが我が家では、勇者の体力というMP残量を思えば、長く城勤めを続けるのは現実的ではないと考えていた。それより、自らの手で仕事を起こし、己の生き方を立て直す方が健やかで、なにより楽しそうではないか。
――そう、冒険は若いうちに始めるものだ。

「わかった。でも、本当にいいの?」
そう尋ねる私に、勇者は短くうなずいた。その表情を見た瞬間、出会った頃からの数々の旅路が脳裏をよぎった。

なかでも、ふと頭をかすめたのは“あの事件”である。未だに真相の解けぬ、大英博物館事件。


若き日の勇者は、ラジオを設計する技師であった。 その手で作り出した“世界最小のラジオ”が、なんと「大英博物館に永久展示される」とギルド(=会社)から伝えられたのだ。
家族総出で祝杯を上げた。
「お父さんすごい!」と子どもたちが叫び、勇者は鼻を高くして「まあな」と笑った。

それから幾年後、長女が学びの旅で異国へ向かうことになった。 「大英博物館にも行ってくるね!」と誇らしげに言い残して。

ところが帰国後、彼女はにやりと笑って言った。「ねえ、お父さん……ラジオ、なかったよ。」

展示室をいくら巡っても見当たらなかったらしい。まさかの“不在”報告である。 本人はショックを受けたというより、どこか愉快気で、「ぬか喜びさせらたな」と苦笑する勇者の顔が、今でも忘れられない。

あれは王の冗談だったのか、ギルドの手違いだったのか――真実は霧の彼方。
ただ、我々は信じている。いまも大英博物館の地下倉庫の片隅で、 勇者のラジオが“発掘待ち”をしているに違いないと。


そんな勇者が、長年勤めた職場を“わずか一日で辞する”と決めた。それは、どんな記念日よりも心に刻まれる一日だった。

ギルドでの任務は、決して楽ではなかったが、自由と創意に満ちた戦場だった。
その戦線を離れる決断をした勇者の背中には、どこか晴れやかな風が吹いていた。
翌日退職届に名を記したその瞬間、彼の心の中ではもう、新たな戦いが始まっていたのだ。

新しい戦場――。
それは、剣でも魔法でもなく、豆と焙煎の香りが漂う“未知のフィールド”。
このときはまだ、私も勇者も、その運命の方向転換が、人生最大のクエストになるとは知る由もなかった。

勇者のひとことメモ:
「退職とは、敗北ではない。転職の呪文《リスタート》を唱える儀式である。」


次回予告

第4章は、勇者、珈琲修行の旅へ―― 10月17日(金)公開予定 お楽しみに!